夜、ふとネットニュースを眺めていたら、少し面白い話題に出会った。
野球の世界大会、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催されているのに、テレビではほとんど放送されていないというのだ。視聴の中心は配信サービス。つまり、契約していない人は試合を見ることができない。
それを聞いて、なるほど、と思った。
同時に、少しだけ不思議な気持ちにもなった。
というのも、僕の中では「国際大会のスポーツ」というものは、どこかテレビとセットになっているからだ。
昔、ワールドカップの試合がある夜には、家のリビングがいつもより少し賑やかだった。なんとなく家族が集まり、誰かが冷蔵庫を開け、誰かが「今のは入っただろう」と言う。
試合のあとには、なぜか街の空気まで少し変わる。翌朝の電車の中でも、同じ試合を見た人たちが、なんとなく同じ話題を共有している。
少し前まで、テレビというのは、そういう「同じ時間」を作る装置だった。
ところが今、スポーツは少し違う場所に引っ越しつつあるようだ。
スマートフォンで配信サービスのスポーツ中継を見るのは、もちろん便利だ。
電車の中でも見られるし、見逃してもあとから再生できる。昔のように、試合の時間に家へ急いで帰る必要もない。
考えてみれば、これはとても現代的なスポーツ観戦の形だ。
僕たちの生活はすでに、かなりスマートフォン中心に回っている。
それでも、少しだけ思う。
スポーツというのは、本来どこか「みんなで見るもの」だったのではないか。
誰かがホームランを打った瞬間、遠くのどこかでも同じ歓声が上がる。
ゴールが決まった瞬間、日本のあちこちの居間で同じように人が立ち上がる。
それはちょっと不思議で、でも悪くない体験だった。
配信の時代になると、その光景は少し変わる。
見る人は見るし、見ない人は見ない。契約している人は試合を追いかけ、そうでない人は翌日のニュースで結果だけを知る。
世界は少しだけ細かく分かれていく。
もちろん、それが悪いわけではない。
時代はいつも、静かに形を変えていくものだ。
かつてラジオがあり、やがてテレビが来て、今はインターネットがある。
スポーツもその流れの中で、新しい居場所を見つけているのだろう。
それでもたぶん、変わらないものもある。
九回裏、二死満塁。
ピッチャーが投げる。
バットがボールをとらえる。
その瞬間、誰かが思わず声を上げる。
そしてその声は、きっとどこか別の場所でも同時に上がっている。
テレビの前かもしれないし、スマートフォンの小さな画面の前かもしれない。
場所は違っても、その驚きや喜びはたぶん同じだ。
スポーツというのは、結局のところ「その瞬間」を共有するためのものなのだと思う。
だからWBCがテレビで見られない時代になっても、たぶん大丈夫なのだろう。
僕たちはきっと、別の形で同じ試合を見て、別の形で同じ歓声を上げる。
ただ、もし可能なら──
時々でいいから、どこかの夜に日本中の人が同じ試合を見ている──そんな瞬間も、まだ残っていてほしい。
なんとなく、そう思う。
