「自己肯定感」と「承認欲求」は、生きづらさの象徴か──

「認められたい」は、そんなに悪いことなのか

最近、「自己肯定感」や「承認欲求」という言葉を聞かない日はない。

SNSを開けば、「自己肯定感が低い人の特徴」という記事が流れてきて、少し目立つ発言をすれば「承認欲求が強い」という言葉が向けられる。

かつては心理学の本の中にあったような言葉が、いつの間にか日常の会話にまで入り込んできた。

不思議なことに、それらはどこか“恥ずかしいもの”として扱われることが増えた気がする。

「自己肯定感が高い人」は自信過剰な人のように見られ、「承認欲求が強い人」は面倒で未熟な人のように語られる。

でも、本来、自分を好きでいたいと思うことや、誰かに認められたいと思うことは、そんなに悪いことなのだろうか。

もちろん、あまりにも露骨な自己顕示や、他人を押しのけてまで注目を集めようとする振る舞いに疲れてしまうことはある。

けれどその一方で、人が社会の中で自然に抱く感情まで、どこか後ろめたいもののように扱われる空気には、少し息苦しさを感じる。

たぶん私たちは、「自己肯定感」や「承認欲求」という言葉を、必要以上に単純なラベルにしてしまったのだ。

自己肯定感は、「自分を好きになる力」ではない

自己肯定感という言葉から、多くの人は「自信に満ちた人」を思い浮かべる。

堂々としていて、ポジティブで、何事にも動じない人。

けれど、本来の自己肯定感は、もっと静かなものなのではないかと思う。

失敗した時。

誰かに否定された時。

自分の欠点が嫌になった時。

それでも、「まあ、こんな日もあるか」と思える感覚。

完璧ではない自分を、それでも完全には見捨てない感覚。

自己肯定感とは、「自分はすごい」と思い込むことではなく、「うまくできない自分にも居場所がある」と感じられることに近い。

だから本来、それは他人に勝つための力ではなく、自分を追い詰めすぎないための感覚だったはずだ。

なのに今は、「自己肯定感が低い」という言葉そのものが、新しい劣等感の材料になってしまうことがある。

自己肯定感を高めなければ。

もっと自信を持たなければ。

前向きになれない自分は駄目なのではないか。

本来は人を救うための言葉だったはずなのに、その言葉によって苦しくなってしまう。

それはどこか皮肉でもある。

「承認欲求がないふり」をする時代

「承認欲求」という言葉も、似たところがある。

人は誰だって、認められたい。

頑張ったことを「すごいね」と言われれば嬉しいし、誰かに必要とされれば安心する。

子どもが親に褒められたくて手伝いをするのも、大人が仕事を頑張るのも、根っこの部分ではそれほど違わない。

けれど現代では、「認められたい」と素直に言うことが難しい。

むしろ、「他人の評価なんて気にしない」という顔をしている方が格好よく見える。

だから人は、承認欲求を隠そうとする。

「別に評価なんて求めていない」

「好きでやっているだけ」

「自己満足だから」

もちろん、本当にそういう人もいるだろう。

ただ、多くの場合、人は“認められたくない”のではなく、“認められたがっていると思われたくない”のだと思う。

そのねじれが、今の時代の窮屈さを生んでいる気がする。

SNSは、人の不安を数字に変えてしまった

そして、その窮屈さを加速させたのが、SNSなのだろう。

SNSでは、人からの反応が数字で見える。

「いいね」の数。

フォロワー数。

再生回数。

すると、人は簡単に、自分の価値まで数字で測り始めてしまう。

もっと見てほしい。

もっと反応がほしい。

もっと認められたい。

そうした気持ちは、本来それほど特別なものではない。

けれどSNSは、その欲求を終わりなく刺激し続ける。

その結果、「承認欲求」という言葉は、いつしか人を揶揄するためのラベルのようになった。

けれど実際には、どれだけ数字を集めても、不安が完全になくなるわけではない。

たぶん人が本当に欲しいのは、“評価”そのものではなく、「ここにいていい」と感じられる安心感だからだ。

人を「ラベル」で見るのではなく

自己肯定感も、承認欲求も、本来はもっと自然で、人間的な言葉だったはずだ。

それなのに今は、「自己肯定感が低い人」「承認欲求が強い人」という形で、誰かを分析したり、切り分けたりするための言葉として使われることがある。

言葉は便利だ。

便利だからこそ、人を簡単にラベル化してしまう。

でも、本当に大事なのは分類ではなく、その奥にある感情を見ることなのかもしれない。

認められたい。

必要とされたい。

自分に価値があると思いたい。

それは、特別に未熟な人だけが抱える感情ではない。

きっと誰もが、多かれ少なかれ抱えている。

だから、「承認欲求が強い」と切り捨てる代わりに、「この人は今、認められたかったのかもしれない」と想像できたなら、少しだけ優しくなれる気がする。

「自己肯定感が低い」と決めつける代わりに、「この人は今、自信を失っているのかもしれない」と考えられたなら、見える景色も変わるのかもしれない。

結局のところ、「自己肯定感」も「承認欲求」も、人間らしさの一部なのだと思う。

それを恥じたり、他人を攻撃する材料にしたりするのではなく、不完全なままの互いを認め合えた方が、少しだけ生きやすい。

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