「生きづらい時代」という言葉を耳にするようになって随分経つ。
ニュースでも、SNSでも、書店に並ぶ本でも、「生きづらさ」が時代を表すキーワードになった。
ふと不思議に思うことがある。
私たちは本当に昔より生きづらくなったのだろうか──
戦争はない。飢える人も少ない。医療も発達した。エアコンの効いた部屋でスマートフォンを操作しながら、世界中の情報にアクセスできる。
それなのに、多くの人がどこか苦しそうに見える。
もちろん、生きづらさの原因は人それぞれだ。
経済的不安、人間関係、健康問題、将来への不安。
ただ、それらを一つひとつ眺めているうちに、私はあることを思うようになった。
現代の生きづらさとは、物質的な不足ではなく、「心が休まらなくなったこと」なのではないか……と。
「生きづらさ」という言葉が広がった時代
「生きづらさ」という言葉が社会で広く使われるようになったのは、1990年代以降だと言われている。
バブル経済が崩壊し、「頑張れば報われる」という成長神話が揺らぎ始めた頃だ。
良くも悪くも、かつては人生のレールがあった。
学校を卒業し、就職し、結婚し、家庭を築く。
そこから外れれば生きにくかったが、人生の岐路で迷う余地も少なかった。
だが現代は違う。
選択肢は無数にある。
生き方も働き方も価値観も自由になった。
自由は本来、喜ばしいもののはずだ。
ところが、人は自由になるほど迷う。
選択肢が増えるほど、「本当にこれで良かったのだろうか」と考えてしまう。
私たちは不自由さから解放された代わりに、終わりのない自己選択の時代へ足を踏み入れたのである。
「自己肯定感」が求められる時代
近年、「自己肯定感」という言葉を見聞きしない日はない。
“自己肯定感を高めよう”
“ありのままの自分を受け入れよう”
そんなメッセージが世の中にあふれている。
そもそも、なぜこれほどまでに自己肯定感が必要になったのだろうか。
裏を返せば、それだけ多くの人が自分を肯定できなくなっているということでもある。
昔の人々が自信満々だったわけではない。
むしろ現代人の方が自由で、豊かで、多くの機会に恵まれている。
それでも自己肯定感が問題になるのは、現代社会が常に「もっと良い自分」を見せつけてくるからだろう。
理想の自分が身近になりすぎた結果、現実の自分を受け入れにくくなった。
そんな時代なのかもしれない。
承認欲求という終わらない競争
自己肯定感と並んで語られるのが承認欲求である。
承認欲求そのものは悪いものではない。
誰だって認められたい。感謝されたい。必要とされたい。
それはごく自然な感情だ。
問題は、その競争が終わらなくなったことだろう。
かつて承認を得る相手は、家族や友人、地域社会だった。
だが今は違う。
インターネットによって比較対象は世界中に広がった。
どれだけ評価されても、さらに評価されている誰かが存在する。
どれだけ成功しても、さらに成功している誰かが見えてしまう。
承認欲求が満たされないのではない。
満たされても、次の承認が欲しくなるのである。
まるでゴールのないマラソンだ。
SNSがもたらした光と影
SNSほど現代社会を変えたものはないだろう。
離れた友人とつながれる。
知識を共有できる。
これまで見えなかった社会問題にも光が当たる。
その恩恵は計り知れない。
一方で、SNSは人間の比較本能を極限まで刺激する装置でもある。
旅行の写真。
昇進の報告。
結婚や出産の知らせ。
誰もが人生のハイライトを投稿する。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
だが受け取る側は違う。
他人の「特別な一日」と、自分の「平凡な毎日」を比較してしまう。
そして気づかないうちに、自分だけが取り残されているような感覚に陥る。
SNSは世界を広げた。
しかし同時に、人間の不安までも世界規模にしてしまった。
自己責任論という静かな圧力
現代社会には、もうひとつ特徴がある。
それは「自己責任」という考え方だ。
努力すれば成功できる。
挑戦しないのは自分の責任だ。
幸せになれないのも自分の問題だ。
もちろん、自分の人生に責任を持つことは大切である。
だが、その考え方が行き過ぎると、人は苦しみをすべて自分のせいだと思い始める。
本来、人生には運もある。生まれ育った環境もある。景気や社会情勢もある。
それなのに、すべてを個人の努力に還元してしまうと、失敗した人は逃げ場を失う。
現代人は自由になった。
しかしその代償として、責任までも一人で抱え込むようになった。
その重さが、生きづらさの一因になっているように思う。
ハラスメントとコンプライアンスの時代
近年、「ハラスメント」や「コンプライアンス」という言葉も急速に浸透した。
パワハラ、セクハラ、モラハラ、カスハラ、マタハラ、アルハラ等々。
昔なら見過ごされていた行為が問題視されるようになった。
弱い立場の人が声を上げられるようになった。
これは間違いなく社会の進歩だ。
しかし一方で、人々が過度に萎縮している場面を見ることもある。
何を言っても問題になるのではないか。
誰かを傷つけてしまうのではないか。
そんな不安から、本音を言えなくなる。
人との距離感が分からなくなる。
何か少し踏み込んだことを言おうとすると、「いまの時代にこんな言い方はよくないかもしれないが」「誤解を恐れずに言えば」といった前置きが添えられる場面が増えた。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
過去には無神経な言葉によって傷つけられてきた人々がいたし、他者への配慮が重視されるようになったのは社会の成熟とも言える。
ただ、その一方で、人々が常に「正しい言葉」を探し続けているようにも見える。
発言の内容そのものよりも、言い方や表現の妥当性に神経を使う。
誰かを傷つけないための配慮が、いつしか「何を言っても叩かれるかもしれない」という萎縮へ変わることもある。
社会は確かに優しくなった。
しかしその優しさの裏側で、人々は以前より言葉に慎重になり、息苦しさを感じる場面も増えているように思う。
自由に話すことと、相手を尊重すること。
そのバランスを模索しているのが、今の社会なのだろう。
生きづらさは時代の流行なのか
ここまで現代社会の「生きづらさ」について書いてきたが、ひとつ、少し意地の悪い問いを立ててみたい。
そもそも「生きづらさ」は、本当に増えているのだろうか。
もちろん現実の苦しみは存在する。
しかしその一方で、私たちは「生きづらさ」という言葉を以前より頻繁に語るようになったのも事実である。
考えてみれば、誰かが生きづらいということは、別の誰かにとっては生きやすいということでもある。
高度経済成長期以降、しばらくは会社中心の価値観が当たり前だった。
そうした社会で生きやすい人もいれば、生きづらい人もいた。
現代は多様性が重視される。
その結果、生きやすくなった人もいる一方で、別の生きづらさを抱える人も生まれている。
どんな時代にも、生きやすい人と生きづらい人はいる。
違うのは、それを語る言葉と空気なのかもしれない。
もしかすると現代は、「生きづらさを語る時代」なのである。
かつては我慢や根性で片づけられていた苦しみが言語化され、共有され、社会問題として認識されるようになった。
それは大きな前進だろう。
しかし同時に、「生きづらさ」という概念そのものが社会に広く浸透したことで、人々が自分の苦しみをその言葉で理解するようになった側面もある。
言い換えれば、生きづらさは現実であると同時に、一種の「時代精神」である。
生きづらさの正体
こうして眺めてみると、生きづらさの正体は案外単純なのかもしれない。
それは「常に評価される社会」で生きる疲れではないだろうか。
他人と比較し、自分を磨き、承認を求め、失敗は自己責任として背負い、言葉選びにも気を遣う。
現代人は一日中、自分自身を管理し続けている。
だから疲れる。
だから息苦しい。
だから「生きづらい」と感じる。
それでも、生きづらさは悪いことばかりではない
ただ私は、生きづらさそのものを否定したいとは思わない。
なぜなら、生きづらさを感じるということは、それだけ真面目に生きている証拠でもあるからだ。
より良く生きたい。
失敗したくない。
人に嫌われたくない。
誰かの役に立ちたい。
そうした願いがあるからこそ、人は苦しむ。
もし何も気にしなければ、生きづらさも存在しないだろう。
だが、それでは人間らしさも失われてしまう。
生きづらさとは、人間が社会の中で生きる以上、完全には消えないものなのかもしれない。
大切なのは、生きづらさをなくすことではなく、ときどき肩の力を抜くことだろう。
世の中の評価から少し離れる。
他人との比較をやめる。
自分の半径数メートルの世界を大切にする。
そうしていると、不思議なことに、生きづらい時代の中にも確かな生きやすさが見えてくる。
生きづらさは現代特有の病ではない。
いつの時代にも存在した苦しみに、現代人が「生きづらさ」という名前を与えた部分もあるのだろう──
私はそんな気がしている。
