衆議院議員選挙の投票日が近づき、テレビやネットでは政治の話題ばかり。
こんな気持ちになる人も多いんじゃないだろうか。
「また選挙か……忙しいし、今回はいいかな」
「どうせ何も変わらない」
「政治家の言うことは信じられない」
20代、30代の頃は、もう少し政治に期待していた気がする。
でも、歳を重ねる間に現実もたくさん見てきた。
その結果、政治と一定の距離を取るという選択に落ち着いた人は少なくない。
それは、無関心というよりも諦めに近い感覚かもしれない。
みなさんはどうだろうか──。
選挙は、最初から「私たちのもの」ではなかった
今の日本では、18歳以上なら誰でも投票できる。あまりに当たり前すぎて、特別意識することもない。
この“当たり前”はそれほど古い話ではない。
日本で初めて国政選挙が行われたのは1890年。明治23年のことだった。
当時、投票できたのは「25歳以上の男性で15円以上の国税を納める人」だけ。当時の人口の1%ほどだ。
つまり、ほとんどの人は政治に口を出す資格すらなかった。
1925(大正14)年に普通選挙法が成立すると、すべての25歳以上の男性に選挙権が与えられた。
ようやく女性に選挙権が認められたのは、戦後1946(昭和21)年になってからのことだ。
今のような「誰もが一票を持つ社会」になるまで、日本はかなり時間をかけてきた。
そう考えると、「投票に行かない自由」がある今の状態は、とても贅沢な話だ。
政治に疲れたのは、あなただけじゃない
若者の投票率が低い、という話はよく聞く。
でも、政治から距離を置いているのは若年層だけではない。
政治家の失言、スキャンダル、責任の押し付け合い──。
選挙戦とは言え、政策論争よりも党の対立や候補者間での炎上戦略が目につく。
一生懸命働いて家庭や仕事を回している中で、いつものやり取りに嫌気がさす。
「そんな世界に付き合っていられない」と感じるのは、とても健全だ。
ただ一方で、政治に対する不満や不信があるのに、その解決策を考えるところまで行かない現実。
そのまま「無関心」という形に落ち着いてしまうケースも多い。
とは言え、中高年は若い頃のように、夢を見ない。理想も追わない。
「何も変わらない」という経験値があるから、期待もしない。
有権者としての怠慢ではなく、経験が積み重ねられた結果だ。
そのため投票に行く人と行かない人の差が広がり、声を上げる層の意見だけが、より強く反映されるという構造が続いている。
それでも選挙で見るべきなのは──
完璧な候補者や政治家や政党は存在しない。
私たちがそうであるのと同様に。
では、何を基準にして選ぶのか。
候補者や政治家が語る理想論に惑わされず、政策の細かい違いが分からなくても、政治家としての資質を吟味することはできる。
自分の言葉で話しているか
耳の痛い質問から逃げていないか
過去の発言と、今の主張が極端に矛盾していないか
他人のせいにせず、失敗を認める姿勢があるか
等々。
これは専門知識がなくても、日常の感覚で判断できる部分だ。
会社や学校、地域で「この人、大丈夫かな?」と考えるのと実はそれほど変わらない。
政治家はヒーローでも救世主でもない。ただ、私たちの代わりに判断し、決定する立場に立つ人だ。
だからこそ、完璧さよりも、誠実さや姿勢を見る意味があるのだ。
投票しないと、何が起きるのか
投票しないという選択も、実は意思表示になる。
「一票で何かが変わるとは思えない」
その感覚は、たぶん正しい。
何より、投票は強制ではない。
でも、投票しない人が増えると、どうなるか──。
結果的に、組織票を持つ団体や、熱心な支持者を抱える候補の声が、より通りやすくなる。
つまり、何もしないことで結果的に現状を後押ししてしまうのが民主主義の一側面だ。
候補者を吟味した結果、投票所で思い切って白票を投じるのもいい。
それでも、「考えて選挙に参加した人が増える」こと自体が、政治の空気を少しずつ変えていくのだ。
選挙は「参加するかどうか」を問われている
選挙は、正解を当てるテストではない。
誰が勝つかを予想するゲームでもない。
「この社会に、自分はどう関わるのか」
その問いに対して、最低限の形で答える場だ。
衆議院議員選挙を前に、完璧な答えを持つ必要はない。
でも、考えること、比べること、そして一度投票所に足を運んでみること。
それだけで、政治は“遠い世界”から、少しだけ現実のものになる。
結局は、また何も変わらないのかもしれない。
それでも行動を起こさなければ、絶対に何も変わらない。
無党派でもいい。迷っていてもいい。
あなたなりのやり方で、選挙に参加してみませんか?
(四谷)
